人間って悲しいね、それでも生きなきゃ(by 片平なぎさ風)

朝、電車の切符を買おうと券売機に500円玉を入れたが、いっこうに受け付けない。仕方ないので、今度は千円札を入れたのだが、こちらもエラーで戻ってきしまう。寝坊して約束の時間に遅れそうだったのであせってしまって、しばらく気がつかず、なぜだ!と怒っていたのだが、よく見ると新札、新500円玉が不可の券売機だった。とほほである。
そこで改めて考えてみたのだが、お金の価値とは信用に担保されているものなんだということ。
確かに1000円をもっていても、それをお金と認めない券売機の前ではただの紙、何の価値もない。そもそも今のお金とは1000円と書かれた紙を1000円ですよと約束されただけで流通しているにすぎない。どこかの国のように、今日からもう使えませんといわれたら、ソッコウただの紙。
お金でものを買うということは、その抽象的な信用を、具体的な形なり製品と交換することなんだろう。となると私たちは、よくよく考えると危ういものを信用しているものである。
ところで、突然だが最近のトレーサビリティの話、である。今朝の新聞にも、2次元バーコードを携帯電話で読み込むことで生産地や生産者の顔がわかるということを誇らしげに宣伝していた量販店があった。「もうこれで安心、私たちはいいものをみなさまに提供していますよ。ほら、見てください。この人が作っているんです。善良そうですね」、っ声が紙面からびしばし伝わってきた。
でも、それっとそんなにすごいことなんだろうか? そもそもかつては、そんな生産者の顔、なんて気にしなくても普通の生活が送れていたのではないか? (ん、そうでもないか…) お前のところはそんなことしなければ信用されないような商品を売っていたのか? そもそも生産地がわかることでほんとうに安心できるのか?なんだが表面的なツクロイ、のように思えてならない。 そしてこの表面を浮遊するような多様だがなんだかわからない信用こそ新たな時代の求められる「信用」である。とにかく何でも知りたい、自分の目で確かめたい!という気持ちに徹底的に答える。そのためにはなにについても情報開示!なのだろう。
しかし、である、それこそ素朴とののしられそうだが、かつてはもっと違うレベルの「信用」みたいなもので、社会は回っていた気がする。それが今は全く機能していないということだろうが、これはよくいわれるような「技術の進歩」とか「人々の消費意識の向上」なんてこととは、根本では違っていると感じてしまう。
確かに気がつけば企業は消費者をだますもの、消費者は企業の論理に抵抗するもの、なんて構図がいつの間にか定着し、どこもかしこも不信のまなざしであふれている。消費者はより賢い目をもつこと、企業はより巧妙にみずからの欲望を隠すこと。この関係がどんどエスカレートしていってる気がする。あるいはマスコミや学者によってそう喧伝されてもいる。
でも、これらが事実ならばこれはひどいことではないか? というのも、新しいレベルの信用は、より多くの「不信」がありそれを可能な限り摘み取ることを前提として成り立っていることになるから。とするならば、この事態に対する答えがトレーサビリティだなんて、あんまりである。だって、トレーサビリティを必要とする社会とは、つまるところ最先端の不信社会であり、もう何も信用できねぇ、徹底的に暴いてやる!という社会なんだもの。おお、おそろしい、なんて時代を生きているんだ。
ただ、「希望」はある。なぜなら消費者と企業のお互いが共通で信用しているものが、いまだにあるから。
それは、お金、である。
今でも券売機で「使えません」と突然いわれてしまう程度の信用しかないものではあるけれど、そしてそんな体験は誰でも一度はあるとは思うけど、それでもなんでもみんな全力でお金を信用している。どんなにサスペンス劇場で、「お金なんて、はかないものね」なんて片平なぎさが言おうが、結局世の中、たしかなものは金だけ。ということでしょうか。
なんて馬鹿な妄想にふけっているうちに目的地に着きました。
もちろん遅刻で、私の信用はがた落ちです。この信用を取り戻すためには、やっぱりお金!ではなく、次回は遅刻しないことでしょう。当たり前ですよね。