ただあきれている場合ではないのかも

小泉首相の発言
自衛隊の活動地域が非戦闘地域
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20041110AT1E1000K10112004.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20041111k0000m010115000c.html

いったいこれはなんだろう。いまどき子どもだってもっとまともな「論理」を立てる(子どもに失礼か? しかも、この答弁に当人はいい答えだといっている。http://www.tokyo-np.co.jp/00/sei/20041111/eve_____sei_____001.shtml やれやれ)。

昨日、仕事で読んでいた原稿に、力ある人(それは必ずしも権力者だけでなく、それを容認する人たちも含めて、だと思う)の、己の行使する力に対する鈍感さ、無神経さについて書かれていた一文があり、小なりとはいえマスコミ業界に身を置く者として痛烈な批判として反省していたのだが、今回の首相の発言とそれを許す(流す?)社会に対しても同じような批判が成り立つような気がしてならない。
数々の暴言を繰り返すワガ国の首相の今回の発言には、恐ろしいことでもあり情けないことでもあるが、驚く人はあまりいないだろう。そしてそれは首相の発言以上に問題である。というのも馴れがうむ無自覚こそが、彼の発言を生み出す構造を下支えしていると考えるからである。
では、何ができるのか? おそらく即効性のある妙案はないだろう。それでもできることは、これまで何度もいわれてきたことだろうが、社会と接続しながら個人の問題として政治を考える、いわば等身大の政治という意識を個々人がもつことしかない。難しい理論を学ぶだけではなく(もちろんそれは重要である)、おかしいと思うことがなぜそう感じるのかを追求し、自らの言葉で他人に向けて発信することである。

しかし、今回の小泉首相の問題は、もはや力への無自覚とか政治家としての資質やディベート能力といったことですらない。それ以前に、相手に対してどれだけ誠実であるのかといった、人間としての品なんだろうな、と思う。

アラファト死亡のニュースが流れた今日という日、極東の国はあまりにも寒い。