回路をつなぐ責任

イラクでまた人質事件があった。状況は予断を許さない。一刻も早い無事の帰還を願うばかりである。
と同時に、この事件は私たちの責任意識や問題へのスタンスのとりかたを厳しく要求されていると思う
マスコミでは、あいかわらず片寄った角度から彼がイラクに旅立つ直前に会った映画監督のコメントが何度も流されている。必死にとめる監督に対して今回の被害者は「なんとかなるだろう」と言ったという。
わかりやすい構図である。そしておおかたの人はこのコメントを聞いて、なんて短絡的だ、これは自己責任だと感じているのではないか。
たしかにそう断罪することは容易だが、そこで考えを止めてしまうのは絶対に間違っている。わたしたちにたやすくイメージを植え付けるマスコミのこうした力に対してますます十分に意識をはたらかせなければならない。
そしてもちろん、だからといってこの時期に彼がイラクに入った気持ちへの安易なシンパシーを抱くことも等しく間違っていると思う。自爆テロをする人の気持ちがわかっても、実際にそれをすることと、しないことではまったく違う。市民社会はそこで踏み止まる、そのような了解のうえで成り立つべきである、と強く信じる。
きわめて政治的な地域に政治的な時期に入るということの影響や意味は大きい。また、当然そこにはリスクがあり、そのリスクが本人の創造力を凌駕する結果を導こうとも、やはり個人の責任は否めない。だがそれでも、彼の気持ちがわかる/わからないといったスタンスをとることや、彼個人の責任を自己責任などという、わかったような、そしてきわめて無関心な言葉で断罪しているときではいまはない。人の命がかかっているのである。その生存のためにあらゆる努力をするべきことは当然である。
そして、それとは別に、まったく別に、なぜイラクにいま旅行(仮に被害者の発言が真実だとしても)にいけないのか、なぜ日本人であるために命の危険にさらされなければならないのか、本当にイラク非戦闘地域なのだろうか、戦場であるイラクにはなぜ自衛隊が派遣されているのか、国はその国民の命をどのようにはかっているのか、問いつづけることが必要である。そのうえで私たち自身がイラクで起っていることとどのようなかかわりあいをもてるのかを考えていかなければならいない。それは、事件への賛否の立場の表明にとどまることなく、またそれに流されることもなく、けれども今回の事件と間違いなく深く絡んでいるさまざまな問題に、言葉は矛盾するようだが、それぞれの局面において判断していくことである。それこそが私たちがイラクの問題に対して回路を築く可能性となるのである。
そして被害者にはなによりも無事、日本に戻り、そのうえでさまざま起るだろう非難に対して揺るぎない、それでも彼がイラクにいかなればならなかったのか、その理由を説明をしてもらいたい。おそらく、そこにはイラク派兵に反対するにせよ賛成するにせよ、硬直化した二元論や感情論を乗り越えるための回路が生まれるだろう。そしてその回路を提示することこそが、彼にとって今回の事件に対して唯一果たすべき責任だと、思う。