道具でつくる生活

chibamata2004-11-21

今日、青山のsempreという雑貨屋にプレゼント用の傘立てを買いにいった。傘立てを買うという経験はこれまでしたこともなく、これがなかなか難しい。プレゼントを送る相手からは、「シンプルでたくさん入るもの」という依頼があったが、それではでっかいバケツや壺でのいいのかというと、そうでもない。玄関に置くものだけに、その家の第一印象になりかねないので、選ぶほうも自然と真剣になる。
あれこれ悩みながらようやく納得いくものが見つかった。希望より少し小さいかもしれないけれど、それでも10本ぐらいは入るので5人家族でも大丈夫だろう。また、これぐらいの大きさなら、不必要な傘を買わないでおこうと思うかもしれないし。気に入るといいのだが。
それはそうと、プレゼントとは別に自宅用にポットとバットを買った。実は前からほしかった野田琺瑯(月兎マークのあれです)のもので、そのうち買おうと思っていたのが、今日まで買えずにいたものだった。家に帰ると、バットは鍋の食材入れに、ポットはコーヒーを入れるのにさっそく使用してみた。そしてこれが、いい。
もちろん必要か必要じゃないかといえば、さほど必要性があるわけではないかもしれない。でも、それを使うのと使わないのとでは、同じ料理でも、また同じコーヒーを入れるのでも、気持ちが変わってくる。たとえば食材入れでも、その食器にあった盛りつけを意識するものだし、新しいポットでは、それにあわせたコーヒーの入れ方を考えるようになる。つまり道具をもつことで、いつもよりもちょっとだけ別の意識をもつようになる、ということである。
物を持ちすぎることは、たしかにあまりよろしくないかもしれない。さきの傘の話だって、要はビニール傘が増えなければ玄関もすっきりするだろうというお節介な思いもある。ただ、物をたくさん持つことと物を大切にしないことは必ずしも一致しないと思う。効率や合理性ばかりが価値基準になり、それはそれで否定しないが、そうでないところにも豊かさはある、と思う。
じゃあ、ビニール傘とコーヒーポットの違いは?
本質的にはないだろう。別に気分によってビニール傘を変えてもかまわない。ただ一律に、物の量だけで豊かだとか無駄だとか、そういうふうに決めることは正しくない。物によって縛られがんじがらめになるのではなく、物の持つ「物性」を意識してそれにあわせて自分の生活を見直し、スライドさせる。そういうのもありだ。