「セキュリティ」は「安全」か?

今朝の「NHK週刊ニュース」でICチップ入りのランドセルの話を聞いた。
ニュース自体は9月27日に配信されたもので、詳細は以下のURLにある。

http://news.goo.ne.jp/news/yomiuri/keizai/20040927/20040927i314-yol.html

構造を簡単に説明すると、ランドセルに取り付けた小型ICチップの電波を校門に設置したアンテナで受信し、その情報を校内の受信機が読みとって児童の登下校の時間をチェックするとともに自動的に保護者のパソコンや携帯電話にメール送信されるというものである。
渋谷のセンター街や地下鉄のホームなど、街のいたるところに監視カメラが設置されている風景に、私たちはあまりにも慣れている。しかも「セキュリティ」という口当たりのいい言葉が使われていることで、むしろそうした監視体制を積極的に支えてしまっている。学校の危機がいわれているが、子どもの管理がここまできたこと背筋が凍る思いである。どこまでもわかりやすく、管理する。でも、それはコミュニケーションではなく、一方的な力の発動でしかない。
だが、このニュースを耳にしたとき、じつはそれよりも驚いたのが、保護者の談。
「セキュリティはいくらあっても困るものではない」
正確な言葉でなくフェアではないが、確かにこんな意味だった。かつては個人情報保護やプライバシーといった権利が声高に唱えられていたが、いまやその対極にあるあらゆる個人情報の一元管理に多くが賛成している。守るべきもののこうした力点の変化を支えているのがほかならない「セキュリティ」という言葉であり、それを不批判、あるいは意図的に流すマスコミではないだろうか。
管理されることに馴致し、むしろ監視されることにしか安心を求められない社会は、まちがいなく困ると思うが。