時代は過去をめざし、妄想はどこへ向かう?

飯田橋ギンレイホールに映画を見にいった。「グッバイ、レーニン!」と「ぼくは怖くない」の二本立てである。個人的には前者のほうが見たかったのだが、あんまり時間を考えずに出かけたことと、二本立てはつらいので後者だけを見てきた。
映画の内容はといえば、要するに子どもの成長もので、感動とまではいわないが、それなりに楽しめる内容だった。ただこのテーマ、ある一定の期間をおいて、いろんな国で何度も繰り返してつくられているもので、新鮮味が不足しているのも事実。どうしてもどこかで見たようなとか、先が読めてしまう。もちろんこまかい設定は違うのだけれども、核となるテーマがわかりやすいぶんだけ、過剰な設定で物語を強調してしまい、ともすれば作品世界に没入することを妨げてしまうことにもなるかもしれない。この作品がどうとかいうのではなくて。

ところで、映画にかぎらず、本やファッションなどある程度時間がたつと、昔の焼き直しということがおこなわれている。もちろん、過去のものに価値を見いだすことはとても意義のあることである。ただ、過去を振り返るまでにあまりにも時間がないのはどうかと思う。
希少性やクラスと並んで、地理的な差異にも価値創出の源泉の一つを求める社会が、情報化や物流の進化によって地理的な格差が軽減され、そのため十分な推進力を得られなくなったとき、新たに過去-現在-未来という垂直な時間軸を積極的に活用しているだけかもしれない。ましてやユートピアが語られえなくなったいま、過去への熱いまなざしは十分理解できる。
行き過ぎた過去の安易な消費はこれからもますます進むだろう。ただやはり、「過去の消費」は「過去の参照」とは決定的に違うのではないか。前者は刹那的な、後ろ向きなまなざししかもたないような気がする。過去から未来へという意志が欠如しているような気がしてならない。

と、途中からバカみたいなことを考えてみたが、どうも妄想ぎみです。
妄想といえば、今日、喫茶店から出てくるなり大声で演歌を歌いはじめた若い女性に出くわした。その気持ちの入った見事な歌いっぷりに、きっといま喫茶店で別れ話でもしてきたのだろう、「ごめん、別れよう」「え、なに?」「ほかに好きな人が」「なにそれ、ばかやろう!」、バンとドアを開けて……、なんて考えてしまったが、これこそどこかで聞いたような話。もちろんこれは過去の参照でも消費ですらなく、ただたんに私の発想の貧困さゆえです、はい。